東海道ウォーク | 原−吉原 |
広重東海道 (原ー朝之富士) |
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なんと言ってもこの絵の特徴は枠からはみ出た富士山。きっと当時は画期的な構図だったのだろう。しかし調子に乗ったのか行書版の原宿でも同じようにはみ出ている。 この辺は湿地帯が多かったので原・吉原・蒲原と原がつく宿場名が続く。 |
元吉原までは愛鷹山越しに見える富士山に見とれながらただひたすら西に向かって歩く。そこから左側に富士山が見えることで知られる左富士を通って吉原へ着く。 吉原宿は津波で場所を三度も変えている。最初の場所は元吉原であり、元吉原はその字のとおり元吉原だったのだ。 津波と同時に富士川も暴れ川で、現在平家越碑がある和田川は鎌倉時代までは富士川だった。だからこの戦いを富士川合戦という。 |
JR原駅付近(写真左)とそのやや先(写真中)の東海道。まっすぐな道が多くこれから歩く道を望み、今まで歩いてきた道を振り返りながら「街道を歩いてる」事が実感できる。 原駅前で会社の女性社員にばったり会った。女性社員「なにやってるんですか」 私「うん、ちょっと用があって来たんだ」 何故か東海道を歩いてるんだと胸を張って言えなかった。東海道を歩くなんて「お年寄り趣味だ」と思われるんじゃないかとの気持ちが私のどこかに。 このあたりでは富士山と同様、愛鷹山(あしたかやま)も有名。写真右が広重が描いた原宿とほぼ同じ構図。広重は富士山の方がずいぶん高くなっているが、ここからだと愛鷹山の方が高い。 |
左富士少し手前あたりの街道(写真左)。この写真だと全く分からないが正面に富士山がきれいに見えていた。ちょうど富士山が街道の右側から左側に変わるところである。 東海道に関するガイドブックには必ず出てくる左富士神社(写真中)。左富士と神社がどうして結びつくのかは知らないが、さして大きくもないこの神社の、特に鳥居の写真は良く見かける。 写真右はこれぞ左富士そのものの写真。ただ左下に写る「名勝東海道左富士」と書かれた碑を写すことに気を取られ、肝心の街道が右隅にちょこっと見えるだけになってしまった。富士山がはっきり写っていることが救いか。 |
吉原の中心地少し手前、和田川のところに平家越碑がある。源氏を討つため攻めて来た平家軍が、鳥の飛び立つ音を源氏が責めてきた音と勘違いし逃げ帰ったとの伝承の地である。それほど多くの鳥が生息していたということである。 |