・ TOP |
入間川とは
荒川は奥秩父甲武信岳を源流とし東京湾に注ぐ。その約80ある支流のうちもっとも大きいのが入間川である。川越市にあるJR川越線の架橋と新上江橋の間、ゴルフ場の川越グリーンクロスのところで合流している。 今は荒川の支流だが昔は離れていて、吉野川、市ノ川、越辺川、高麗川、新河岸川などと合流。その後荒川と合流していた利根川と合流。そして隅田川となり東京湾に注いでいた。 ところが江戸の水害を防ぐため、寛永6年(1629年)関東郡代の伊奈忠治が、荒川の流れを熊谷久下で締め切り、吉野川と合流させ、また入間川と合流させた。これにより利根川は千葉県銚子港へ注がれるようになる。 しかし、入間大橋の北でほぼ直角に荒川と合流していたため、出水時には逆流し、洪水の被害をもたらしていた。そのため昭和6年、合流点の工事が行われ現在の形になった。よって入間大橋を過ぎた辺りから不自然に荒川と平行に流れている。 |
入間川を大雑把に区分すると、名栗村から飯能市までを上流、それ以降を下流と分けられる。あえて中流を入れるとすると入間市・狭山市辺りか。 以前は飯能市の岩根橋より上流を名栗川と呼び、下流を入間川と呼んでいた。今でも名栗川のほうがとおりが良い。道路沿いの表示には入間川ー清流名栗川とある。 名栗村をしばらく進み大鳩園キャンプ場より山中へしばらく坂を登っていくと、建設省で決めた源流点がある。 その源流点のすぐ後ろにコンクリートの砂防ダムがあり水が滝のように落ちている。この上にまだ川があることがすぐに分かる。このダムの上に上るとすぐに川は二手に別れ山の中に入っていることか見える。一方は妻坂峠付近まで続き、もう一方は大持山の山腹までいくらしい。一般的には妻坂峠付近が源流とされているが、長さで言えば大持山の方が長く、真の源流と考えられる。 |
入間川は江戸時代初期から大正時代にかけて、重要な交通機関であった。 江戸時代、江戸の人口はどんどん増え、それに伴い家屋建材の需要も増えた。また当時の江戸は火事が頻繁に起こりそれが木材需要をさらに高めた。木材の産地として江戸に近いこの地方が栄えたのは当然である。 材木を江戸に運ぶのには筏を組んで川を下った。材木問屋がある千住まで10日前後かかったようである。江戸から見ると西の川が運んでくる材木とのことで「西川材」と呼ばれるようになった。 |
・ TOP |