心のバリアフリーと合理的配慮

◎我々は「共生社会」とほぼ同じ意味で「まぜこぜ」を使っています。

「共生社会」という言葉があります。我々は「共生社会」とほぼ同じ意味で「まぜこぜ」を使っていると思っています。
というか、具体的にどの様な状態が「共生社会」なのか、ハッキリ分からないというのが本当のところであり、「まぜこぜ」の方が、多様・多世代な人達がごちゃ混ぜになって、対等な立場で楽しくカーレットをしている様子をイメージしやすいように感じています。

では、一般的に「共生社会」とはどんな意味で使われ、共生社会を実現するために必要とされる「心のバリアフリー」とは何なのかを、首相官邸ホームページより抜粋してみます。

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<首相官邸ホームページより抜粋>
障害がある、ないにかかわらず、女の人も男の人も、お年寄りも若い人も、すべての人がお互いの人権や尊厳を大切にし、支え合い、誰もが生き生きとした人生を送ることができる社会、これを「共生社会」といいます。

障害のある人もない人も、支える人と支えを受ける人に分かれることなく、ともに支え合い、さまざまな人々の能力が発揮されている活力ある社会です。
「障害」はその人のからだやこころにある「機能の障害」と社会につくられているバリアの両方で、つくり出されているものであり、社会にあるバリアを取り除くのは社会の責任です。

この考え方を「障害の社会モデル」と言いますが、このことをすべての人が理解し、それを自分の考え方に取り入れ、具体的にバリアを取り除く行動をすることで、社会全体の人々に心のバリアフリーの考え方を広めていくことが重要です。

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ということで、共生社会(まぜこぜ)を推進するには心のバリアフリーの考え方を広める必要があるとのことです。
では、心のバリアフリーとは何なのか。これも首相官邸ホームページより抜粋してみます。

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<首相官邸ホームページより抜粋>
「心のバリアフリー」とは、さまざまなからだやこころの特性や考え方を持っているすべての人々が、お互いに分かり合うために、話をしたり支え合うことです。そのためには、一人一人がバリアを取り除くための行動をして、また、それを続けていくことが必要です。

「心のバリアフリー」を実行していくためのポイントは以下の3つです。

(1)障害のある人への社会的障壁を取り除くのは社会の責務であるという「障害の社会モデル」を理解すること。

(2)障害のある人への差別(不当な差別的取扱い及び合理的配慮の不提供)を行わないよう徹底すること。

(3)自分とは異なる条件を持つ多様な他者とコミュニケーションを取る力を養い、すべての人が抱える困難や痛みを想像し共感する力を培うこと。

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実はこの最も大切な「3つのポイント」とは、具体的に何のことなのかが分かりづらいんです。
最初の「社会的障壁」「障害の社会モデル」、次の「合理的配慮」って、それを理解するだけで大変です。

これらの中で最も大切なのは社会モデルについて理解することと言われています。

「障害をどの視点から見るか」を考える上で「個人モデル(医療モデル)」と「社会モデル」という考え方があります。

個人モデルとは、障害や不利益・困難の原因は目が見えない、足が動かせないなどの個人の心身機能が原因であるという考え方。
階段を登れないのは立って歩くことができないから、または車いすを利用しているからで、その障害を解消するためには、立って歩けるようになるためのリハビリなどによる個人の努力や訓練が必要であり、医療・福祉の領域の問題と捉えます。

一方、社会モデルとは、障害や不利益・困難の原因は障害のない人を前提に作られた社会の作りや仕組みに原因があるという考え方。
社会や組織の仕組み、文化や慣習などの「社会的障壁」が障害者など少数派(マイノリティ)の存在を考慮せず、多数派(マジョリティ)の都合で作られているためにマイノリティが不利益を被っている、というマジョリティとマイノリティの間の不均衡が障害を生み出しているとの考えです。
社会が障害を作り出しているからそれを解消するのは社会の責務と捉えます。

ここで最近の障害理解研修などではよく使われる「平等と公平」と題したイラストを使って説明します。
そこには社会的障壁、合理的配慮、そしてユニバーサルデザインが(それなりに)分かりやすく描かれています。


(説明)
背の高い人、平均的な背の人、背の低い人の3人が野球を見に行きました。
すると野球場の前には塀があって、そのままでは平均的な背の人、背の低い人の2人は見ることが出来ません。
ふと横を見ると踏み台が3つ置いてあります。

さて、この状況で、あなたならどうしますか?


(説明)
3人いて、踏み台が3つあるのなら「1人につき1つの踏み台」が平等だ。
ということで、こうなりました。
たしかに絵を見ないで言葉だけから考えると正しい答えのような気がします。

しかし、これでは背の低い人は野球を見ることが出来ません。
目的は3人で野球を観戦することです。


(説明)
背の高い人は踏み台無し、平均的な背の人には1つ、背の低い人には2つの踏み台。
これだと全員が野球を見ることが出来ます。
野球を見るという目的を全員が達成できるように工夫することを合理的配慮といいます。
「塀があることによって野球を見ることが出来ない。」という障害を、合理的配慮によって無くすことを「バリアフリー」と言います。

しかし、合理的配慮という工夫や調整をしなくても、環境を変えたら野球を見ることが出来るかも知れません。
それが次のイラストです。


(説明)
こうすれば初めから3人は背の高さを気にしなくても野球を観ることが出来ます。

このように最初から様々な人が利用しやすく、暮らしやすい社会となるよう、まちや建物、物、仕組み、サービスなどを提供していこうとする考え方のことをユニバーサルデザインと言います。


これらのイラストから、合理的配慮による「公平」と環境を整備した「ユニバーサルデザイン」に共通しているのが、背の高さの違う3人全員が野球を観ることが出来たことです。

すなわち、背が低いから観れないのは仕方ない、または背が低い人は伸びるように努力すべきだと、その人個人の責任にするのではなく、野球を観れないなら工夫と調整をすることで観れるような環境に変えることを社会が(全員が)理解し、行動することと考えます。

この場合、背の高い低いなどその人本人ではどうにも出来ないこと(心身の障害など)によって、情報を得るとか、その場所に行けるなどに差が出ないことが大切です。
そのためにはひとり一人に合った合理的配慮(合理的な工夫や調整)をするのが当たり前になることが重要です。

社会モデルでの「障害」は障害物競走での障害物と同じように社会が(誰かが)作ってしまった障害なので、取り除くのも社会の責任ということです。

そうすると障害者とは、現在の社会が作った物、仕組み、ルールなどのままでは、障害物が多くて困ってしまうことの多い人のことを指します。
なのでその障害物を取り除いていけば困ることも少なくなっていくのです。


もう一つ重要なことは合理的配慮の考え方です。

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<内閣府ホームページより抜粋>
合理的配慮とは、障害のある人から、社会の中にあるバリアを取り除くために何らかの対応を必要としているとの意思が伝えられたときに、負担が重すぎない範囲で対応すること(事業者においては、対応に努めること)が求められるものです。
重すぎる負担があるときでも、障害のある人に、なぜ負担が重すぎるのか理由を説明し、別のやり方を提案することも含め、話し合い、理解を得るよう努めることが大切です。

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この合理的配慮の「合理的」という、ある意味曖昧な表現が問題化することが多く、「合理的配慮だ。」と言いながらも合理的ではなく一方的であったり、非合理的であることも多いような気もします。

このように心のバリアフリーを実行していくことの3つのポイントは、頭で考えると結構難しいですよね。

しかし、「まぜこぜ」の良いところは「まぜこぜ」になって対等にカーレットを楽しんでいくと、ちょっとだけ頭で考えて知識を身につけるだけで、自然と3つのポイントを実践するようになるんです。

まぜこぜに加入して2ヶ月目の会員の言葉を紹介します。
「私自身 カーレットによって、障がいのある方たちと何の壁もなく楽しめること、また身近に感じるようになったことを実感しているので、多くの方に体験して欲しいと思っています。」

単に色々な人が集まってカーレットを楽しんでいるだけですが、結果、1人でも多くの人にこのような気持ちになってもらえるとうれしいです。


最後に「まぜこぜ」のイメージを図図で表すと・・・。